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  • 祖国、ポーランド共和国に忠を尽くせ
  • 日本・ポーランド交流史

  • パネル展示 「初代駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメル展-外交官にして移民」

    2008年4月25日、駐日ポーランド共和国大使館において「初代駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメル展-外交官にして移民」オープニング式典が開催された。当日は式典に先立ち、ワルシャワ大学日本語学科で日本関係史を専門とするエヴァ・パワシ・ルトコフスカ教授による講義が行われ、激動の時代を生きたロメル大使の活動を、当時の歴史的背景とともに振り返った。

    式典では、マルチン・リビツキ大使、ポーランド移民博物館学芸員であるマウゴジャータ・ヂェドゥシツカ-ジェミルスカ氏がロメルの人道支援、研究意義等を語るとともに、ロメルのお孫さんにあたるヨランタ・ロメル-ニトスワフスカ氏とマレック・ロメル-ニトスワフスカ氏が其々メキシコとカナダから駆けつけた。会場では、パネル展示の他、昨年ワルシャワのワジェンキ公園で開催された同展の模様が上映された。

    パネル展示の一般公開は、5月末日までの毎週月曜日午前10時から11時30分と水曜日午後2時から3時30分まで。


      日本・ポーランド交流史

     

    18921919

    ポーランドと日本の間にまだ正式な国交が結ばれていなかった時代、初めてポーランドの土を踏んだ日本人は福島安正少佐でした。1892~93年にかけてベルリンからウラジオストクまで単騎旅をしていた最中のことです。参謀本部の命により、ヨーロッパ各国の陸軍、とりわけ脅威であった隣国ロシアの軍事に関する情報収集活動を行っていたのでした。その際、少佐はポーランドの独立運動指導者やシベリアに抑留されていたポーランド人らと交流を持ったのです。彼の報告書によって、19世紀末の日本でも分割占領下にあるポーランドの悲劇的な運命が知られることとなりました。

    19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポーランド人旅行者や研究者が日本にも次第に訪れるようになりました。その中に民族学者のブロニスワフ・ピウスツキ、民族誌学者で作家のヴァツワフ・シェロシェフスキという二人のシベリア流刑囚がいます。ピウスツキは後にアイヌ語やその文化に最も精通した専門家の一人となり、シェロシェフスキは日本についての回想記や物語を多く書き残しました。

    ポーランド人の日本に対する関心は日露戦争(1904~05年)の間に大いに高まりました。ロシアが敗北すれば祖国の独立回復が実現するかもしれないという希望が生まれたためです。そして国民連盟とポーランド社会党の幹部が日本政府代表と非公式に接触するに至りました。ロマン・ドモフスキとユゼフ・ピウスツキが会談のため東京を訪れたのです。結局、大規模な協力関係の実現には至らなかったものの、当時ポーランド人の中に生まれた親日感情は大戦を経て今日に至るまで続いています。

    19191945

    第一次世界大戦後の1919年、日本はポーランドの独立を承認し、両国間の正式な国交が樹立されました。20年代の両国の交流活動は散発的なものに留まっていたものの、通商条約の調印や皇族のポーランド非公式訪問という成果につながりました。また日本赤十字は約800名のポーランド人シベリア孤児たちに援助の手を差し伸べ、彼らの本国帰還を実現させました。こうしたことによるポーランドの親日感情高まりの証として、1925年、51人の日本人将校に対ロシア戦時の軍功を称えてVirtuti Militariの勲章が授与されました。両国の互いの文化に対する関心はいや増しました。その需要に応えるために様々な団体が組織され(ポーランド・日本協会、日本・ポーランド協会など)、ポーランドでは日本語講座が開講されたり純文学の翻訳や様々な出版活動が行われたりするようになりました。

    1930年代になると世界情勢の変化に伴い両国の関係も活発化の動きを見せます。特にドイツやロシアに対する諜報活動や暗号解読術の分野での軍事協力はますます発展しました。この軍事協力体制は1945年まで、すなわち、1941年12月11日にポーランド亡命政府が日本に宣戦布告し国交が断絶した後もなお続いていたということです。杉原千畝領事とレシェク・ダシュキェヴィチ少尉はカウナスとケーニヒスベルクで、小野寺信少将はミハウ・リビコフスキ少佐と共にストックホルムで、協力関係を保ち続けました。杉原領事の発給したビザのおかげで、約6千人ものポーランドのユダヤ人が目前に迫っていた死を免れることができたのです。

    戦時中も、ポーランドのフランシスコ修道会は日本での活動を続けていました。マクシミリアン・コルベ神父はゼノ修道士(ゼノン・ジェブロフスキ)と共に長崎に修道院を設立しました。フランシスコ会は現在でも孤児や高齢者、障がい者に対する福祉活動を献身的に行っています。

    19451999

    ポーランドと日本の国交は1957年に再び回復しました。最初の駐日ポーランド大使にはタデウシュ・ジェブロフスキ、駐ポーランド日本大使には太田三郎がそれぞれ着任しました。それ以降、特に1989年以降、両国の政治的、文化的、学術的協力関係はますます発展をとげています。

    1990年には海部俊樹首相が、また1994年には高円宮殿下、1997年には池田行彦外相がポーランドを訪問しました。ポーランドからは、1991年にヤン・クシシュトフ・ビェレツキ首相、1994年にクシシュトフ・スクビシュエフスキ外相およびレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)大統領、1998年にアレクサンデル・クファシニェフスキ大統領、1999年にイェジ・ブゼク首相が相次いで日本を訪問しています。日系企業によるポーランドへの投資活動も拡大の一途をたどっています。

    両国の芸術家同士も互いにインスピレーションや影響を受け合っています。「ポーランド派」と呼ばれる映画作品群、タデウシュ・カントルの演劇やイェジ・グロトフスキの実験演劇論、ポーランドのグラフィックアートやポスター、マグダレナ・アヴァカノヴィチの作品、ポーランド音楽などは日本でもよく知られ、大変な人気を博しています。ポーランドでも日本の古典的舞台芸術から前衛演劇に至るまで、またポスター、グラフィック作品、音楽、映画など様々な芸術が熱烈に歓迎されています。

    日ポ間の文化交流の最大のシンボルとなっているのは、クラクフにある日本美術技術センター「マンガ」です。日本で最も知られた映画監督の一人であるアンジェイ・ワイダの資金提供などによって設立されました。

    ポーランドの日本学者、日本のポーランド学者らの尽力によって、両国の国民は互いの文化事情に関する優れた著作や、文学作品を原語から直接訳出した見事な翻訳で読むことができるのです。

    1999年以降

    2000年にはブロニスワフ・ゲレメク外相が、翌2001年にはアリツィア・グジェシコヴィアク上院議長およびアンジェイ・ジェリンスキ文化・国家遺産大臣が相次いで日本を訪問しました。2004年4月にはミハウ・クレイベル科学・情報大臣が来日、ポーランド科学フォーラム第1回会合の議長を務めました。

    2002年には天皇皇后両陛下のポーランド公式訪問が史上初めて実現、翌2003年には小泉純一郎首相がポーランドを訪問しました。その席で「21世紀の日本国とポーランド共和国の戦略的パートナーシップに向けた共同声明」が調印されたのです。2005年1月にはマレク・ベルカ首相夫妻が日本を訪問しました。翌2006年にはステファン・メレル外相と麻生太郎外相が会談、第三国支援のためにポーランドと日本が協力していくことで合意。同年11月には麻生大臣が自身の演説「自由と繁栄の弧」の中で、ポーランドとの協力関係の重要性ついて言及しています。2007年は戦後、両国間の国交が回復して50周年という節目を迎えたことから、ポーランドでも日本でもこれに関連した行事が数多く行われました。

    文化面での交流はさらに盛んに行われています。1999年には国交樹立80周年を記念して大規模な展覧会が実施されました。同年は国際ショパン年でもあり、ショパンを大きく取り上げたこの事業は「ショパン ポーランド・日本」展と題され、東京、大阪、ワルシャワ、クラクフの各都市を巡回しました。2001年には横浜、名古屋、京都の各都市でダ・ヴィンチの《白テンを抱く貴婦人》をはじめとするチャルトリスキ美術館の所蔵品展覧会が開かれました。翌2002年にはポーランド国立民族舞踊団「シロンスク」が初来日、各地で公演を行っています。日本ではショパンを筆頭に、シマノフスキ、モニューシュコといった作曲家らの音楽が大変な人気をほこっています。クシシュトフ・ペンデレツキは日本でも絶大な関心が寄せられている現代作曲家ですが、2004年には栄誉ある高松宮殿下記念世界文化賞を受賞しています。映画ではアンジェイ・ワイダ監督、クシシュトフ・キェシロフスキ監督といた巨匠らの作品が日本でもよく知られています。

    これらを総合して鑑みるに、ポーランドと日本の関係は21世紀に入り今後ますます活発に発展していくことでしょう。

    執筆:エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ


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